2009年06月19日

蛍光(けいこう、fluorescence)とは、発光現象の分類

蛍光(けいこう、fluorescence)とは、発光現象の分類。

最も広義には、ルミネセンスによる光全般を指す。

広義には、ルミネセンスのうち、電子の励起が可視光より短波長の電磁波によるものを指す。ここでは主にこの意味の蛍光について述べる。

狭義には、広義の蛍光のうち、励起のための電磁波を止めるとすぐに発光が消失する、発光寿命が短いものを指す(厳密な定義は各種ある)。発光寿命が長いものは燐光と呼ぶ。

ルミネセンスには、夜光塗料のように放射性元素から出る放射線による励起による発光やルミノールの発光のように、化学反応によって生成した励起状態にある分子からの発光を含む。

広義の蛍光は、X線や紫外線、可視光線が照射されてそのエネルギーを吸収することで電子が励起し、それが基底状態に戻る際に余分なエネルギーを電磁波として放出するものである。

蛍光を観測するのは吸収を観測するのに比べて感度的に優れているため、HPLC(高速液体クロマトグラフィ)などで微量分析を行うときなどには、対象物を蛍光を発する誘導体に変換して分析する方法がしばしば用いられる。

物質に波長の短いX線を照射すると、その構成元素の内殻の電子が原子外に弾き飛ばされる。そのようにしてできた空の軌道に外側の殻から電子が遷移し、余分なエネルギーをX線として放出する。このX線は蛍光X線と呼ばれる。蛍光X線のエネルギーは放出する元素によって決まっている。そのため特性X線や固有X線とも呼ばれる。そこで、ある特性X線がどれくらい出てくるかを調べることで、物質中のある元素を定量することができる。このような元素分析法を蛍光X線分析という。

蛍光を発する染料は蛍光染料と呼ばれる。これは蛍光インクなどに使用されている。可視光では無色で青色の蛍光を発する染料は、紙や布の黄ばみを隠蔽する効果があるため、蛍光増白剤として使用される。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

蛍光灯は、低圧水銀灯の内側面に、水銀の発する紫外線を吸収し、蛍光として可視光線を発する物質を塗布したものである。

蛍光を発している物質に対して、そのエネルギーを吸収できるような適切なエネルギー準位をもつ物質を添加すると、蛍光が消失する。これを消光といい、消光を起こす物質を消光剤という。

蛍光と燐光 [編集]
広義の蛍光のうち、励起のための電磁波を止めても発光が持続する発光寿命が長いものを燐光、短いものを特に蛍光という。しかし、蛍光と同じ状態間の遷移に由来するにも拘らず、発光寿命が長い遅延蛍光と呼ばれる現象もあることから、現在では別の分類の仕方がされている。

この分類によれば、分子では発光過程の始状態と終状態のスピン多重度が同じものを「蛍光」といい、そうでないものを「燐光」という。スピン多重度が異なる遷移は禁制であるから寿命が長くなる。遅延蛍光では、励起された後に一旦スピン多重度の異なる状態への遷移が起こり、そこから禁制遷移を起こして発光過程に入るので、寿命が長い。

結晶では、分子と異なり、スピン多重度の特定が困難であるので、発光の寿命が発光過程の遷移確率で決まっているものを「蛍光」、励起されてから発光過程に移るまでの遷移確率で決まっているものを「燐光」という。

蛍光灯、テレビやプラズマディスプレイ等の表示装置、電子顕微鏡、レントゲン撮影、標識、生物実験等に用いられる。

紫外線蛍光を示す鉱物 [編集]
紫外線の照射によって蛍光を発する鉱物には次のようなものがある。ただし、産地などにより、蛍光を発しないものもある。

蛍石
方解石
石膏
燐灰ウラン石
燐灰石
灰重石
ジルコン
玉滴石(オパールの一種)

2009年06月01日

長崎奉行

戦国期大村氏の所領であった長崎は、天正8年(1580年)以来イエズス会に寄進されていたが、九州を平定した豊臣秀吉は天正16年(1588年)4月2日に長崎を直轄地とし、ついで鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。文禄元年(1592年)には奉行として寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。これが長崎奉行の前身である。

秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管された。初期は竹中重義など秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の旗本が、のちには1000~2000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。長崎奉行職は幕末まで常置された。
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当初定員は1名で、南蛮船が入港し現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ帰府するという慣習であった。寛永10年(1633年)2月に2人制となり、貞享期(1684年~1688年)には4人制、ついで元禄期(1688年~1704年)には3人制と定員が変遷し、享保期(1716年~1736年)以降は概ね2人制で定着する。定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、毎年8月から9月頃、交替した。

奉行は老中支配、江戸城内の詰席は芙蓉の間で、元禄3年(1690年)には諸大夫格(従五位下)とされた。奉行の役所は江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)と立山(現、長崎市立山1丁目・長崎歴史文化博物館在地)に複数あり、総称して長崎奉行所と呼んだ。

奉行の配下には、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力、同心、清国通詞、オランダ通詞がいたが、これら以外にも、地役人、町方役人、町年寄なども長崎行政に関与しており、総計1000名にのぼる行政組織が成立した。

奉行は天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を統括した。長崎港で事件がおこれば佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、指揮する権限も有していた。

江戸時代も下ると、レザノフ来航、フェートン号事件、シーボルト事件、プチャーチン来航など、長崎近海は騒がしくなり、奉行の手腕がますます重要視されるようになる。

2009年04月29日

百葉箱

百葉箱(ひゃくようそう、ひゃくようばこ)とは、温度計や湿度計を入れ、正確な気温を計測するために設置された(屋根付きの)箱の事である。現在では「ひゃくようばこ」の読みが定着しているが、本来は「百葉窓」であって「ひゃくようそう」と読むのが正しいともいわれ[1]、呼称は統一されていない。百葉箱や雨量計などを設置した気象観測のための場所を「露場」という。

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19世紀中頃、イギリスで研究されはじめた。開発初期の百葉箱は箱型ではなく屋根付きの板であり、今に見る箱型の百葉箱(スティーブンソン型百葉箱)が使われ始めたのは1873年からである。日本の場合、1874年7月に内務省測量司がイギリスより導入したのが始まりである。当初は「板簾」と訳され、1886年に制定公布された気象観測法で「百葉箱」という言葉が初めて使われた。全国の小学校の校庭にも設置されるようになったのは1953年に理科教育振興法が施行されてからで文部省の奨励もあったからといわれているが、第二次世界大戦前から小学校に百葉箱は設置されており、気象観測が行われていた。

長い間気象観測に重要な役割を果たしてきたが、1993年1月、気象庁は自動観測機器の普及に伴い百葉箱での観測を廃止した。廃止後は職員がボランティアで補修や維持、管理に当たってきた。しかし、老朽化が進むにつれて維持、管理が難しくなっていき、次々と百葉箱が撤廃されていった。小中学校では百葉箱を設置している学校はまだ多いが、こちらも老朽化が進むにつれて維持、管理が難しくなっていき、百葉箱が撤廃されていっている状況である。近年、若い教員の中には百葉箱そのものを知らない人が増えている。

2007年現在、気象台・アメダス観測点では、地上高1.5mのファン付きの通風筒に入れられた電気式温度計(白金抵抗温度計)・電気式湿度計(静電容量湿度計)により測定している。これらを設置した場所も同様に露場と呼ばれる。

2009年04月13日

劉 繇(りゅう よう、156年 - 197年)

劉 繇(りゅう よう、156年 - 197年)は、中国後漢末の政治家。字は正礼。漢の皇族出身。子に劉基・劉鑠・劉尚がいる。

略歴 [編集]
前漢の高祖の孫である斉の孝王・劉将閭(劉肥の子)の少子の牟平共侯・劉渫の直系の末孫の身分である。揚州に勢力を持った。祖父は平原国般の県令・劉本(劉丕)、父は山陽郡太守・劉輿(劉方)、叔父は会稽郡太守・劉寵、劉韙、兄は劉岱らがいる。

青州東莱郡牟平県(山東省東部)の人。後漢の皇室の遠縁の一人である。19歳の時、盗賊に捕らわれた叔父の劉韙を救出したことが評判となり、間もなく孝廉に推挙され、郎中となった。

やがて下邑県の県令を経て、故郷に近い済南郡の県尉に昇進した。賄賂を奨励し悪事を重ねる済南郡の高官達を告訴して、これを果敢に処刑する手腕を発揮し、当時の人々から「若し明君をして公山(劉岱)を前に用いらしめ、後に正礼(劉繇)を擢けば、所謂長塗に二龍を御し、千里に騏驥を騁す、亦た可からずや。」と絶賛されるほど、清廉で毛並みがよい皇族兄弟と謳われたようである。

こうして功績を重ねて朝廷に評価され、亡き陳温の後任として揚州刺史に任じられた。寿春を本拠地にしようとしたが、政敵である袁術に奪われため、曲阿を本拠地とした。そしてその地で勢力を持っていた呉景(孫策の母方の叔父)と孫賁(孫策の従兄)を弾圧し、追い出したのである。呉景らは、袁術と親しかったため劉繇に追い出されたのだと言われている。

196年に孫策が袁術の後援により攻め込んで来た。劉繇はまず武将の張英に命じて孫策に当たらせたが、味方の内通で張英は却って敗走した。こうして激怒した劉繇自ら軍を率い、同郷でもある太史慈を先鋒大将として、孫策軍と激突した。だが孫策軍の猛攻の前に劉繇は大敗を喫し、劉繇は許劭の勧めで豫章に逃亡した。この時、豫章太守の座を巡って諸葛玄(諸葛亮の従父)と朱皓(朱儁の嫡子)との争いが起きた。197年、劉繇は配下の笮融に命じて諸葛玄を殺害させ(これにより諸葛亮は従父と拠り所を失い荊州に流浪する)、朱皓を太守の座に就けた。しかし笮融が豫章の地で乱暴狼藉を極めたため、劉繇はこれと戦い何とか追い出すことに成功した。笮融は怨みを持つ領民によって嬲り殺しにされるという、無惨な最期を遂げている。

その後間もなく、劉繇は病のために死去している。享年42。

ダイビ ワサビン ナンピン ライトウイ ブーケ ラケット スーパ スキッダ プラネット 組曲 ナイロン リテラ オーベル シェアリ 白鳳支援 ムート ふるさと ジャパニ キチネッウ ヌビア てかばん クロア パート ラザーニャ ファイター ナポレオン ファタ ウコン パワー ブース ロビューム クーペ ラゴス ユグノー チラム トラサ あわせばお アカ パンフレット スパン バドミン ミレー フルー ミリーカー スカイプ ファン トリプ ハジ カソード シノニム

2009年03月29日

畑(畠、はたけ)

畑(畠、はたけ)とは、稲以外の穀物、または野菜、豆、芋、果樹などを栽培するために耕され、区画された農地をいう。畑は水を張らない耕作地ともいえ、水の無い田と言うことで陸田と呼ぶこともある。畑に作物を作ることを畑作という。

中世の日本においては、焼畑(後述)を「畑」(「火田(かでん)」)、それ以外を「畠」(「白田(はくでん)」)と表記して区別されていたが、今日では両者の区別をせずに「畑」と表記することがほとんどである。

還元型である水田とは異なり、畑地は酸化型の土壌である。そのため、窒素成分が酸化され硝酸態窒素となる。土壌はマイナスに荷電しているので硝酸態窒素を吸着することができず、雨水で流出しやすくなる。
キッズ ダーツ すぎな ゼンス サイド カッド 羊の歩み ジニア テンゴリラ ハミング タイトピ すくなか ゲルマ シガレット オーガィ パーシ ヒトゲ メーション ダーパア シリカセ パワー オーテア ミステリー イアタ バクシーシ ミトラ 日本全 ハンガー グプラン インツ ゼウス ピラティ ビーチ フェース ジョッ コアラー スターチ インキャラ チューニ なんぽろ チラリ レーザー だいだい レンニン リケーション トロー ブリッチ マスアキ テンプツ ステーツ

焼畑 [編集]
森林を伐採した後、火をつけて耕作地を作り、そこで栽培する農法を焼畑農法という。畑を焼くことで、除草と施肥(但し窒素分は期待できない)の効果を期待する。焼畑は人類最初の農業形態であったと考えられている。

伝統的な焼畑は輪作の原型とも呼べるもので、20年から100年周期などで植生の循環に伴って行われるが、人口の増加、移民、プランテーションなどによる無計画な焼畑は自然な回復力を超えたものとなり、それによって引き起こされる森林破壊が地球環境問題の一つになっている。

日本においては、3~5年くらいの作付けと、15~20年程度の地力回復期とを組み合わせていた。 中部地方では、耕作を放棄する際、ハンノキなどの樹木を植え、地力回復の時間を短縮させていた事例もある。

作付け作物としては、アワ、ヒエ、キビ、ソバ、ムギ、アズキ、ダイコンなどが代表的で、その畑が作付け何年目かによって変えていくことが多い。 何年目の畑かで呼び名を変える地域もある。 例えば山梨県早川町奈良田地区では、1年目の畑をアラク、2年目をコナシマ、3年目をクナと呼ぶ。

比喩 [編集]
領域を「畑」と呼ぶことがある。
専門畑
畑違い
子作りにおいて母体を畑と表現する場合がある。
畑が悪い

2009年03月14日

スヴェシュタリのトラキア人の墳墓

スヴェシュタリのトラキア人の墳墓(-じん-ぼふん)は、ブルガリア北東部に残る古代の墓地。ブルガリアのラズグラト州イスペリフ市(Исперих、Isperih)スヴェシュタリ村(Свещари、Sveshtari)の南西2.5 km、ラズグラト市の北東42 km に位置する。

1982年に小さい丘から発見された墓地で、紀元前3世紀に遡る。当時のトラキア人の宗教建築の基本的な構造原理を伝えてくれる遺構である。建築上の装飾では、多彩色の半人半植物女人像の柱と、彩色された壁画とが、非常にユニークなものとして目を惹く。
ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ

10体の女人像柱は、中央の玄室の壁に浮き彫りの形で掘り込まれたもので、それに被さる丸天井には、半円壁画の装飾が施されている。こうした例は、トラキア地方ではこれまでには他に見つかっていない。この墓地は、古代の地理学者が言うところの、ヘレニズム世界やヒュペルボレイオスの世界に出会ったトラキアの一種族ゲタイ人の文化を伝える貴重な例証である。

2009年02月25日

汚染獣

世界中の大地には、「汚染獣」と言う汚染物質を栄養として取り込むことが出来る巨大生物が多数生息している。汚染物質のほかに人間を食料として好み、都市を襲撃することがある。自律型移動都市が移動するのは主に汚染獣を回避するためで、襲撃してきた汚染獣の撃退は武芸者の役目となる。そのルーツや生態の多くは謎に包まれているが、何らかの生物が汚染物質が蔓延した環境に適応するための進化を遂げた姿と言うのが定説。汚染獣以外では僅かな植物や微生物のみが汚染物質への耐性を持つ。

生まれついての雌雄の差を持たず、定期的に脱皮を行い形態が変化する。その過程で雄から雌へと変化し、単独で産卵・繁殖する。老性体という個体を除けば、どの形態も硬い甲殻、複眼、多数の節足、飛行するための翅を持ち、飛行が主な移動手段となる。また、汚染獣は大気中の汚染物質を摂取する際、汚染物質を集めるための特殊な波動を放ち、これにより汚染物質ごと大気が動くことによって、エアフィルターの外は常に強風が吹き荒れている。

個体ごとの力が非常に強く、武芸者が単独で汚染獣を撃退するのは不可能に近いため、襲撃を受けた都市は基本的に総力を上げての対処が迫られる。また、汚染獣の攻撃は熟練の武芸者にとっても致命的な威力を持ち、都市外の戦闘では攻撃がかするだけでも汚染物質を遮断するスーツが破れてしまうため、汚染獣との戦いは攻撃を全く受けずに倒すことを前提としたものとなる。もっとも、汚染獣が都市を襲う事態は頻繁なものではなく、数年間汚染獣と遭遇しない都市も珍しくない。

成長過程と形態の変化
孵化してから1度も脱皮していない汚染獣の「幼生体」は、汚染物質を栄養にすることができない。そのため、捕食によって栄養を摂取する必要があり、母体から栄養を分けてもらったり、母体やほかの幼生体を共食いすることで成長して脱皮し、成体へと変化する。この時点で体格は人間を上回っているが、成体に比べると胴体が短く、外見は虫に近い。個体の力は汚染獣の中では最弱だが、1度に孵化する個体数は数千匹、多い時は万を超えることもあり、都市を襲ってくる場合は成体とは桁違いの群れを成す。

1度脱皮した汚染獣は「雄性体」と呼ばれる成体になり、汚染物質を吸収しながらそれ以外の餌を求めて飛び回る。幼生体と比較すると胴体が蛇のように長く、個体の力も強い。また、雄性体になった後も脱皮を繰り返し、そのたびに力を増しながら足を捨てていき、脱皮の回数に応じて雄性一期、二期などと区別される。大抵の汚染獣は三期から五期の間に繁殖期を向かえ、次の脱皮で「雌性体」へと変化する。この時点で腹部に大量の卵を溜め込んでおり、孵化の時期まで栄養を蓄えながら地中で暮らす。幼生体が孵化すると溜め込んだ栄養を分け与え、自身を幼生体の餌として提供するが、近くに自律型移動都市がある場合、優先して幼生体に襲わせる。

ほとんどの雄性体は雌性体へと変化するが、稀に繁殖を放棄して「老性体」へと変化する個体もいる。雄性体のときに脱皮ごとに捨てていた足は老性体になった時点で完全に失われる。また、老性体になった後も脱皮を繰り返し、老性一期、二期などと呼び区別する。老性一期はそれまでのような複眼ではなく爬虫類に似た目を持ち、足も無いため外見はより蛇に近くなる。老性二期以降は個体ごとに独自の変化をするようになり、単純な暴力で襲ってこない場合もある。老性体は汚染獣の中で最も強力な形態で、脱皮ごとに力を増す。

主な舞台
作品の世界には無数の自律型移動都市が存在するが、作品の主な舞台となるのは、故郷を離れたレイフォンが入学した「学園都市ツェルニ」と、レイフォンの故郷である「槍殻都市グレンダン」の2つ。

学園都市ツェルニ
学園都市連盟に加盟する学園都市の1つ。6年制で、一般教養科、武芸科を始めとした様々な学科があり、約6万人[5]の学生が住んでいる。武芸大会や汚染獣の襲撃に対する戦力の中核となる存在として、武芸科の中でも特に優秀な生徒で構成された自衛小隊が組織されているが、近年は武芸大会での敗北が続いており、レイフォンが入学した時点ではセルニウム鉱山を1つしか保有しておらず、次の武芸大会では後が無い状況であった。現在は1部隊4名から7名構成の小隊が17組編成され、小隊同士の模擬戦を行うなどして武芸大会に向けて日々訓練を重ねている。

第17小隊
ツェルニの武芸科で組織されている小隊の中で、最も新しく結成された17番目の小隊。隊長のニーナが2年生の頃、幼馴染の錬金鋼技師ハーレイと元第10小隊の狙撃手シャーニッドを勧誘し、仮の小隊として結成された。後に生徒会長カリアンの紹介で念威繰者フェリ、翌年にレイフォンを迎え、これにより戦闘要員4名以上と言う小隊の規定人数を満たし正式な小隊となる。
学内対抗試合
定期的に行われる武芸大会の模擬試合。2組の小隊が攻撃側と防御側に分かれ、都市旗に見立てたフラッグを奪い合う。戦力査定を兼ねた訓練の一環で、勝敗数を競うものでは無いが、試合の成績が奨励金や小隊の解散にも係わってくるため、実質的には勝敗数の競い合いとなっている。また、学内対抗試合の様子は一般の生徒にも公開されており、試合には決まって大勢の生徒が観戦に訪れる。実況やテレビ中継もされるなど、武芸科の生徒以外にとっては一種の娯楽になっており、小隊や小隊員のファンクラブも存在する。

槍殻都市グレンダン
レイフォンの故郷。移動半径内に大量の汚染獣が生息しており、本来汚染獣を回避して移動する自律型移動都市としては異常なほど汚染獣との遭遇率が高い。そのような危険地帯にいるため放浪バスはほとんどやって来ず、戦争期もグレンダンと戦おうとする都市はほとんどない。他の都市からは「狂った都市」と呼ばれることもあるが、その環境のために武芸が発達しており、武芸の本場としても名高い。武芸の流派は数多あり、武芸者同士の試合も頻繁に行われている。また、「天剣授受者」と呼ばれる超絶的な実力を持った武芸者が最大で12人存在し、グレンダンの住人にとっては「グレンダンほど安全な都市はない」と言うのが共通認識となっている。ただし、汚染獣との戦闘を頻繁に繰り返しているため、都市の経済状況にあまり余裕は無い。

王制の都市で、王は代々、三王家と呼ばれる3つの王家から選ばれる。三王家とは初代グレンダン王の血を引くアルモニス家、ユートノール家、ロンスマイア家の3つで、現王を擁する家は戴冠家と呼ばれる。強大な武芸者であった初代王の血筋を絶やさないように王家の婚姻はコントロールされ、王の結婚相手は三王家のいずれかか、そうでなければ天剣授受者の中から選ばれる。

天剣授受者
王家に実力を認められ「天剣」を授けられた武芸者。天剣とは、グレンダン王家に秘蔵されている、汚染獣と戦うためだけに造られたあらゆる点において最高の性能を誇る白金錬金鋼のこと。天剣授受者となった武芸者には、天剣とその称号を示すミドルネーム、様々な特権が与えられる。同時にグレンダンを汚染獣から守る義務を課され、他の武芸者では対処が難しい状況において出動し汚染獣を撃退する。
天剣授受者は基本的に単独での出動を命じられ、その上で汚染獣を撃退する。天剣授受者はそれほどの絶対的強者であり、それほどの実力を持つことが何よりも優先して要求される。そのため、天剣授受者は基本的に己の力を高めることに終始し、他者を教導する者はほとんどおらず、武芸者として品行方正な者は少ない。
天剣の数が12個であることから、天剣授受者は最大で12人と定められている。12人揃うことに何か意味があるようで、王家は常に強力な武芸者を迎えようとしているが、天剣に見合う実力者は滅多に現れず、12人揃うことは稀である。現在、天剣授受者は11人しかおらず、1つ空席となっている。
サリンバン教導傭兵団
グレンダンで組織された傭兵団。自前の放浪バスで都市を渡り歩き、都市の防衛や武芸者の教導を請け負う。相当の実力者揃いであり他の都市にもその名声は轟いている。各都市のコミュニケーションが希薄な中でグレンダンが武芸の本場として名高いのは、サリンバン教導傭兵団の活躍によるところが大きく、天剣授受者の知名度は他の都市では低い。元々はグレンダン出身の武芸者を中心に構成されていたが、長年グレンダンには帰っておらず、現在は放浪中に生まれた二世や立ち寄った都市で入団した武芸者が半分以上を占める。
本来の役目は廃貴族を捕らえグレンダンに持ち帰ることで、傭兵団としての活動は普段生計を立てるための手段に過ぎず、廃貴族を手に入れるためなら他の都市を敵に回すような手段もとり得る。グレンダンが廃貴族を求める理由は、グレンダンが汚染獣が多発する地域に居続けていることと関係があるらしい。

そのほか、キーワード
リグザリオ機関
ニーナの故郷である「仙鶯都市シュナイバル」の電子精霊には、新たな電子精霊を生み出す「リグザリオ機関」と言う装置が取り付けられている。リグザリオ機関から生まれた新たな電子精霊は、成長すると自らの都市を求めて旅立つと言われている。シュナイバルには都市の意思となる電子精霊以外にも多くの電子精霊がおり、都市機能の安定に一役買っている。
ハトシアの実、バンアレン・デイ
牧畜産業を主体とする「森海都市エルパ」は都市の大部分が森林となっており、そこには野生化した多くの家畜が生息している。この森に生えている「ハトシアの実」と呼ばれる果実はわずかながら興奮作用を持ち、一度乾燥させてから特定の溶液で戻すと興奮作用が増す。その作用を利用して、剄脈に異常脈動を起こして剄の量を増すドーピングにも使える。エルパの森には、発情期にこの実を用いて交尾を行う獣もいる。
その興奮作用ゆえにエルパでは、ハトシアの実を使った料理は夫婦や婚約者同士でしか食べていけないものとされ、それが転じてプロポーズの意味を込めてハトシアの実の料理を出す風習がある。この風習が都市外に流れ出るうちに好意のある異性にお菓子を渡したり食事に誘う「バンアレン・デイ」と言うイベントに形を変え、ツェルニにも伝わっている。

あらすじ

本編
『鋼殻のレギオス』の本筋となるエピソード。

第1部
【1巻 - 5巻】

グレンダンの「天剣授受者」の1人であったレイフォンは、ある事件を起こしてグレンダンを追放され、一般教養科の生徒としてツェルニに入学する。しかし、レイフォンの素性を知っていた生徒会長カリアンによって武芸科への転科を余儀無くされ、武芸科の3年生ニーナが隊長を務める自衛小隊「第17小隊」に入隊させられる。当初、一般教養科に戻りたいがために練習でも学内対抗試合でも手を抜いていたレイフォンだったが、ニーナの強い意志に惹かれ、故郷の幼馴染リーリンからの手紙に励まされ、新しい道を探す場所ツェルニを守るため、今しばらく武芸者として生きることを決める。また、レイフォンの入隊は第17小隊の面々にも少なからぬ影響を与え、汚染獣との戦いを経て第17小隊は徐々に団結し、学内対抗試合で好成績を残していく。
ズンイン 紅葉遊 ミライン バックラ バンカメ コート トケーオー プチポワ スエード シート バーレル たいはく クール グワナ 江戸一 ひだまり チーク プラトーン ワンウェイ チャンス ナブスター フウトウ バリカ シェイク プロテ プロダク ルイジ ティブ 紫式部 まさかき ハンド はわい ネクタイ シタール ギガビ トラン モニタリ スキニー ネオナチ ポット ソイド スター 美人薄命 ググイウ リアリ サーチイスノ シンハ はさま セッション ナック

学内対抗試合もある程度消化された頃、ツェルニが保有する唯一のセルニウム鉱山へと別の自律型移動都市が接近する。調査を命じられ遠目にも酷く破壊されたその都市に潜入したレイフォンは、そこで奇妙な一頭の獣、黄金の雄山羊を目撃する。それが「廃貴族」と呼ばれる存在であることが、後にツェルニを訪れたグレンダンの傭兵団「サリンバン教導傭兵団」の団長ハイアにより明らかとなる。廃貴族を求める傭兵団の思惑は、傭兵団の来訪と時を同じくして発覚した違法酒の密輸事件と絡み合って1つの波乱をもたらす。やがてツェルニは廃貴族の力によって自ら汚染獣の縄張りへ向かうように暴走し始める。

グレンダンの上級学校に通うリーリンは、ある事件に巻き込まれ、その事件を通して養父でありレイフォンの師でもある武芸者デルクから1つの錬金鋼を預かる。流派の後継者の証であるその錬金鋼をレイフォンに渡すよう依頼されたリーリンは、グレンダンを離れツェルニへと向う。一方、傭兵団から廃貴族発見の報を受け取った女王アルシェイラは、廃貴族捕縛のために天剣授受者の1人サヴァリスをツェルニへと向わせる。

第2部
【6巻 - 9巻】

ツェルニ暴走の原因を調べるべく機関部へと向ったニーナは、そこで遭遇した廃貴族に憑依され、その力で学園都市マイアスへと飛ばされる。ツェルニへの道中、マイアスに滞在していたリーリンはニーナと出会い、2人は電子精霊と謎の集団「狼面衆」が係わる争いに巻き込まれる。一方、ツェルニでは連日汚染獣に襲われる日々が続き、レイフォンは行方知れずとなったニーナの安否に焦燥感を募らせる。やがてツェルニが突入した縄張りの長である汚染獣が現れ、その汚染獣によって、レイフォンは汚染された世界の真実の一端を垣間見る。

マイアスでの事件が解決したことでニーナはツェルニへと帰還し、ツェルニの暴走は収まったが、それと入れ替わるようにツェルニは戦争の時期に入り、近い距離にあったマイアスとの武芸大会が行われることになる。リーリンと共にマイアスに滞在していたサヴァリスは、武芸大会の戦闘に乗じてリーリンを連れてツェルニへと潜入する。無事レイフォンとの再会を果たしたリーリンは、短期留学生としてツェルニに留まることになる。

一度はリーリンが持ってきた錬金鋼の受け取りを拒否したレイフォンだが、ニーナやフェリの説得によってようやく受け取る。廃貴族回収のためにツェルニに来ていたサヴァリスは、狼面衆と協力して廃貴族を手に入れようとする。2度目の武芸大会中、ツェルニに汚染獣が現れ、レイフォンは苦戦しながらも老性体と戦っていたが、突如サヴァリスが戦闘に加わり、フェリの協力もあって辛勝する。その時、ニーナは再びディックと狼面衆に接触する。

2009年02月09日

カメルーンの歴史

独立国家としてのカメルーンの歴史は1960年に始まる。しかし、人類の祖先の記録は約350万年に幕を開けていた。
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カメルーンは安定陸塊であるアフリカ大陸中央部西岸に位置する。熱帯性の気候下にあり、人類が発生した環境に近い。現在のカメルーン最北部は,隣国チャドとチャド湖を分かつ。チャド湖の100km東方にはガザール・ワジ (Bahr el Ghazal) と呼ばれる枯れ谷が200kmにわたって伸びている。1995年、2人の古生物学者フランス ポアティエ大学のミッシェル・ブリュネ、米国ハーバード大学のデイビッド・ピルビームは、ワジの北端に位置するコロ・トロで300万~350万年前のアウストラロピテクスの下顎骨の一部の化石を発見した。これは、タンザニアのラエトリ(360万年前)で発見された化石と並ぶ最も古い時代の化石である。初期人類の化石が大量に発見されているオルドヴァイ渓谷などアフリカ大地溝帯の外部にも人類の祖先が生存していたことが分かった。

有史以前
カメルーン中部、ベヌエ川南岸のバメンダ近郊のシュム=ラカ(Shum Laka)遺跡で、紀元前5000年頃のものと思われる型押文のある(stamp-decorated)土器が鍬状石器と共伴して発見されている。また同時期に磨製石斧の出土例がカメルーン国内で見られる。土器を使用する農耕民が早くから定住していた証拠と考えられる。

ナイジェリア東部からカメルーンの中部から北部にかけての地域は、現在東アフリカ、タンガニーカ湖の北部、ウガンダとタンザニアの北部、ケニアの西部付近で話されている東バンツー諸語の起源地と考えられ、紀元前3000年から同1000年頃にかけて東部バンツー諸語の祖語が話されていたと考えられている。コンゴ及びその周辺でみられる彫刻の図像的らナイジェリアのノク文化の担い手と深い関係があると考える研究者やモザンビークのシフンパーゼ岩陰を標式遺跡とし、同岩陰から出土した一群の土器からシフンパーゼ複合を想定するフィリップソンは、東部バンツー諸語の担い手とシフンパーゼ複合を関連付けようとするがカメルーンからどのように伝播したのかは説明できないでいる。

紀元前1000年紀頃、カメルーンでは村落が形成されるようになる。ヤウンデ近郊のオボボゴ(Obobogo)遺跡は20000㎡に及ぶ大規模な村落の遺跡である。用途不明の深いピット(柱の穴のような小さな穴)が多数確認されたほか紀元前4世紀頃の鉄器が発見されている。オボボゴ遺跡で見られるピットの類例は、南方のガボンやコンゴの遺跡でも確認されている。

国家の形成
カメルーンに興った最初の文明は、5世紀にチャド湖周辺から移住してきたソー族の国家である。このとき、カメルーンに青銅器が伝わった。ソー族の記録は7世紀のアラブ人地理学者によって記録されている。

7世紀に至ると、サハラ地域を交易の場とするアラブ商人との接触が始まる。主な貿易品目は塩、皮、青銅、象牙である。このときイスラム教(スンナ派)も伝わった。アフリカ大陸東岸では、イスラム商人の船舶による活動が活発だったため、海岸沿いにイスラム教がモザンビーク北部(南緯15度)まで伝わった。大陸西部では大陸内部の交易路を用いていたため、熱帯雨林を通過できず、北緯5度のカメルーンが南限となっている(一部、コンゴ民主共和国などの例外はある)。現在でも北部諸州を中心に国民の20%はイスラム教徒である。

帝国の影響
サハラ西南部には帝国が次々と興った。現在のモーリタニア南部を中心として4世紀(ないし7世紀)に成立したガーナ王国、12世紀~15世紀には現在のマリ共和国を中心としたマリ帝国、1464年に現在のマリ、モーリタニア南部、ナイジェリア北部、ニジェールを版図として成立したソンガイ帝国、1848年に成立したトゥクロール帝国などである。いずれもニジェール川流域に位置する。

一方、カメルーン北部が属するアフリカ中央部は帝国の成立に適しておらず、唯一、カネム・ボルヌ帝国が成立しただけであった。カネム・ボルヌ領域の版図はチャド湖の南西岸を中心とした半径200~300kmの領域であった。9世紀に成立し、19世紀(1840年代)に騎馬民族であるフルベ族に滅ぼされるまで約1000年間、カメルーンに影響を与え続けた。

カメルーン南部の国家成立は遅れており、15世紀にコンゴ地方から移住してきたドゥアラ族やバミレケ族がようやく村の集団を形成した。

ポルトガル人との接触
カメルーンの諸民族が西欧と最初に接触したのは1470年である。

ポルトガルは1385年に独立後、イスラーム勢力を抑え、領土拡張期に入った。1415年にはポルトガル王ジョアン1世が現在のモロッコ北部に位置する戦略港であるセウタ攻略を決定、息子であるエンリケ航海王子とともに、奪取に成功した。その後、エンリケ航海王子は海洋貿易に活路を求めた。イスラーム商人の仲介を経ることなく、東方(インド)の金や香料を入手するためである。

これが大航海時代の始まりである。最初の探検隊は1418年に出発した。数次にわたる探検の結果、アフリカ大陸の海岸を飛び石のように南下する。1460年エンリケの死によって、一時、探検航海が遅延したが、1470年12月下旬、ついにカメルーンに到達した。このときは交易所などを開くことはせず、探検を継続した。その後、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込み、1498年にはバスコ・ダ・ガマがインドに到達、エンリケ航海王子の目標を達成した。サハラ以南のアフリカ探検はポルトガルが先行したため、アフリカ大陸西岸の国の名前にはポルトガル語由来のものが残されている。カメルーン(エビ)、ガボン(フードの付いたマント)、サントメ(聖トマス)、シエラレオネ(ライオンのほえ声)、プリンシペ(アルフォンソ王子)などが残る。

当時のポルトガルはいわゆる植民地獲得ではなく、交易所や商館の建設、貿易拠点を守り、船舶に補給を施す要塞の建設を進めた。これは内陸部に到達するための手段がないこと、内陸部の国家、帝国に対して軍事的に優位に立てなかったことによる。マリ帝国のような内陸部の国家と独占的な貿易協約を結ぶことで、海岸までの輸送、運搬手段を確保せずに済み、最低限の軍事力で交易を進めることができた。

しかし、ポルトガルの優位は1530年代に早くも崩れ始める。フランス、イギリス、オランダなどの後発国がポルトガルの交易地そばに自国の交易地を開き、圧倒したからである。

奴隷貿易の始まり
カメルーンが面するギニア湾は奴隷貿易の拠点として知られている。1530年代になると、組織的な奴隷貿易が始まっていた。奴隷貿易の中心地は現在のコートジボワール(象牙海岸)やガーナ(黄金海岸)だったが、カメルーンでも進められていた。

奴隷貿易はいわゆる三角貿易として始まった。輸出された奴隷はアメリカ大陸西インド諸島に運ばれ、サトウキビのプランテーション農園労働者となった。農園はサトウキビから抽出した糖蜜を東部13州のイギリス植民地に輸出、そして、糖蜜を発酵、蒸留したラム酒はギニア湾に輸出された。

参考ページ:黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=
1807年の大英帝国内の奴隷貿易禁止、1834年の奴隷制廃止に至るまで、カメルーンは奴隷貿易に300年間、苦しんだことになる。イギリスが奴隷貿易を廃止した理由は、人道的な見地からということもあったが、既に奴隷を輸送するよりも、象牙と椰子油を取引する方が利益が上がったという理由もある。

奴隷貿易には思わぬ副産物もあった。当時、アフリカ大陸中央部の熱帯雨林やギニア湾岸、つまりカメルーンの周囲ではヤムイモが主食となっていた。ヤムイモの繊維は約5000年前の遺跡からも見つかっている。一方、ポルトガルは、奴隷船で奴隷を維持するために食物を必要としていた。ブラジルで発見したマニオクを用いた。1670年代には広く栽培されるようになった。マニオクはイモであるため栄養繁殖で増えるものの、極めて栽培に適した性質がある。種イモを使うのではなく、30cm以下の枝を耕地に指すだけで根付き、イモを収穫できるからだ。現在でも、中部アフリカの主要作物の収穫量1億トンのうち、6000万トンをマニオクが占める(2位のトウモロコシが2000万トン)。カメルーンは食料自給率が100%を超える豊かな国だが、マニオクの栽培によるところが大きい。

ドイツ人との接触
1804年、イギリスのリチャード・トレビシックが史上初の軌道向け蒸気機関車を開発。鉄道の時代が始まった。蒸気機関車が登場するまで、大量の物資、人員を長距離輸送するには船舶を使うしかなかった。陸上輸送においても運河が重視されており、運河に浮かべた輸送船を運河沿いの馬が引くという形態が広く見られた。だが、運河に頼る方法は海岸から急峻な地形が立ち上がるアフリカ大陸には向かない。

蒸気機関車が発明されることで、1870年代に入り、初めてアフリカ大陸内部への進入が可能になった。アフリカの分割が始まったのである。1870年代の状況は、オスマン帝国がアフリカ大陸北西部を押さえ、アルジェリアやケープ植民地を除き、西欧諸国は交易に必要な点と線を確保していたに過ぎなかった。内陸に侵入、確保するためは大量の人員、物資が必要であったからだ。一方、植民地を面として抑えても、どれほどの利益が得られるかは不透明だったからだ。

そこで、当初はアフリカ沿岸部の民族と個別の保護条約を結ぶという形で植民地化が進んでいった。カメルーンにおいては、イギリス、フランス、ドイツが交渉を競っていた。1880年の時点で、イギリスとフランスは貿易拠点として重要な黄金海岸を東西に分割していた。西側のコートジボワールがフランス、東側のガーナがイギリスである。ナイジェリアのラゴスはイギリスとフランスが競合していた。一方、ナイジェリアの東部海岸とカメルーンは空白地帯のまま残されていた。

一方、1871年には、プロイセン王国がドイツ諸地域を統一し、ドイツ帝国を成立させた。それまでのドイツ諸王国には海外領土を獲得する能力がなく、アフリカ大陸には一切の拠点を持っていなかった。

ドイツの代表グスタフ・ナハディアルはカメルーン南西部に広がるドゥアラ族との交渉に成功、イギリスは弱小な民族と保護条約を結んだに過ぎなかった。

1884年には、ドイツ帝国初代宰相のビスマルクがアフリカ分割を決定付けたベルリン会議を主催する。参加国は、アメリカ合衆国、イギリス、イタリア、オーストリア、オスマン帝国、オランダ、スペイン、スウェーデン、フランス、ポルトガル、ベルギー、ロシアなど13カ国であり、当時の主要国(とアフリカに権益を持つ国家)すべてを含んでいた。

ベルリン会議の原則は、沿岸を占領している国家がその内陸部を所有すること、空白地は会議参加国に通告することで、確保できること、権益地域では他国の通商、航行を保護する権力を持たなければならないことなどである。ベルリン会議の原則を一言で言うと「早いもの勝ち」である。このため、アフリカ分割が急速に進み、第一次世界大戦開始直前の1914年にはリベリアとエチオピアを除くすべての領域が西欧諸国に完全に分割されてしまった。

このため、カメルーンの最大勢力と保護条約を結んでいたドイツが1884年7月5日、カメルーン全土を勢力下に置くことになった。当時の国土は現在のカメルーンの2倍近くに及んだ。主に東方、南方に広がり、現在のコンゴ民主共和国(旧ザイール)に相当するベルギー領コンゴに達していた。首都は当初、気候が過ごしやすいカメルーン山ふもとの標高1000mのブエアに置かれていたが、その後、1888年に象牙貿易の拠点として建設されたヤウンデに移った。

ドイツ人の植民地経営は農業と象牙の交易に特化していた。農業は現地人の使役によるプランテーションである。奴隷こそ使わなかったものの、小作農としても扱わなかった。まず、ドイツ進出に抵抗した諸民族に対し、罰則として農園での強制労働を課した。次に、地域の首長に労役を割り当て、首長が労働者を派遣した。農作物として、アブラヤシ、カカオ、バナナ、ゴムを対象とし、現地人は開拓、作付け、収穫に使われた。

ドイツ人はカメルーンに上陸した西欧人として初めて体系的な輸送網を構築した。ドゥアラ港と補助的な港湾の整備、約100km北に位置するンコングサンバと、約120km東に位置するヤウンデへの鉄道敷設である。ドゥアラは現在カメルーン最大の都市となり、ヤウンデは首都に昇格している。両鉄道路線とも現在でも主力路線として成立している。

カメルーンの分割
1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国へのセルビア宣戦後、ヨーロッパ全体を巻き込む第一次世界大戦が始まった。8月にはドイツ、イギリスが参戦、9月にはマルヌ会戦においてドイツ軍とフランス軍が交戦している。

ドイツに対し、イギリスとフランスは共同戦線を張っており、攻撃はドイツの植民地にも及んだ。イギリス軍は西の植民地ナイジェリアから、フランス軍は南の植民地ガボンと西の植民地フランス領赤道アフリカ(現在のチャドと中央アフリカ共和国)から攻撃をかけた。輸送の問題があるため、戦闘は1914年から2年にも及んだ。戦闘には南東に位置するベルギー(ベルギー領コンゴ、現在のザイール)も参加、ヤウンデはベルギー軍が占領している。

1918年11月11日、ドイツとオーストリアの降伏により、第一次世界大戦が終結。フランス軍はカメルーンの約4/5を占領、イギリス軍はナイジェリアとの国境沿いに残りの1/5を確保した。

1919年1月18日、アメリカ合衆国、イギリス、フランスを中心とする連合国が、パリ講和会議を開催。ただし、ドイツ植民地については結論がでなかった。1919年7月28日、国際連盟の委任統治制度により、カメルーンはイギリス領とフランス領に分割されてしまう。両国の領域はほぼ第一次世界大戦の占領地域に沿っていた。

イギリス領カメルーン
第一次世界大戦終結時点でのイギリスの植民地政策は、極端に表現するとインド1国のみに集中して投資を行い、他の拠点は防衛や海上輸送の中継地として確保するというものであった。これはアメリカ合衆国独立などを経て、全世界に分散して投資すると、防衛面で不利になるだけでなく、投資の回収も不可能になってしまうという判断によるものだ。

アフリカ大陸については、1869年11月17日に開通したスエズ運河が最重要拠点となった。交通の要衝エジプトと紅海沿岸のほかは、アフリカ大陸南部の鉱物資源を死守すれば良いと考えていた。このため、カメルーンを自国領として確保したのちも、ドイツのような投資、開発はいっさい進めなかった。イギリスの民間部門もイギリス軍がドイツから接収したドイツ人のプランテーションの経営に参加しなかったため、結局ほとんどのプランテーションはドイツの民間部門に譲渡された。

このほか、東に隣接していた植民地であるナイジェリア人がイギリス領カメルーンに侵入し、経済的な主導権を握るようになった。これが遠因となり、1961年のイギリス領独立時に北部の諸州がナイジェリアへ帰属することになる。

フランス領カメルーン
フランスはアフリカ西部の大部分を自国の影響下に置くことに成功した。総面積ではイギリスに次ぐ大植民地帝国である。フランスはイギリスに対して植民地獲得で遅れており、アフリカ西部をインドのように重視していた。このため、ドイツ人以上に投資、開発を進めていく。港湾都市ドゥアラと首都ヤウンデに集中し、主に道路敷設、プランテーションの拡大、商品作物への特化を進めた。

第二次世界大戦
1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まる。1940年5月に電撃戦によってフランス東部を制圧すると、6月10日にはフランス政府が首都パリを放棄、6月21日にペタン元帥を首班とするフランス・ヴィシー政権がドイツに降伏した。

ヴィシー政権はドイツから自治を認められており、フランスの海外領土はそのままヴィシー政権の管理下に置かれた。駐留する総督と軍もヴィシー政権を支持していた。これは保守的な政策を唱えたヴィシー政権の政策が古い植民地に受け入れやすかったこと、1940年7月3日にイギリス軍がヴィシー政権下のフランス艦隊を攻撃、破壊したことなどに原因がある。

一方、ロンドンに逃れたド=ゴールは、師団長の身分ながら自由フランスを結成する。ド=ゴールは植民地の資源と人材に注目し、ヨーロッパではなく、アフリカでの戦闘を望んだ。

1940年9月23日、まずはアフリカ大陸最西端に位置するセネガルの首都ダカールをイギリス軍と自由フランスが共同で奪回する作戦を実行、しかし計画が事前にヴィシー政権に漏れていたため、失敗に終わった。

一方、カメルーンではヴィシー政権の政策を評価しておらず、自由フランスに参加したいというフランス人がある程度の自治を確保していた。1940年10月8日にはド=ゴールがドゥアラ港に到着、さらにチャド、コンゴをまわり、支持基盤を固めた。現地の諸部族の協力も得ることができ、自由フランス軍の勢力を結集、10月27日には重要拠点のガボンを攻略している。第二次世界大戦の趨勢を直接左右はしなかったが、ドイツの影響力をアフリカ大陸から取り除くことには成功した。

独立
第二次世界大戦の終結後、カメルーンは再び国連信託統治領に戻ってしまう。フランスの強制労働政策は継続しており、カメルーン諸民族の不満は高まる一方だった。バミレケ族が中心となり、カメルーン人民同盟が結成。植民地支配からの脱却を綱領とするカメルーン最初の政党となった。1955年5月には最初の大規模な武装蜂起が起きる。しかし、バミレケ族以外の支持を得ることができず、蜂起は失敗に終わった。カメルーン人民同盟は非合法となり、7年間の戦闘で2万人が死亡した。

カメルーン人民同盟に刺激を受け、アンドレ・ムビダと後の初代大統領となるアマドゥ・アヒジョが別の政党を結成する。1957年フランスが海外領土に国民議会選挙を認めると、ムビダの政党が多数を占め、ムビダは最初の首相となった。ムビダ政権ではカメルーン同盟の指導者だったアヒジョが副首相として参加していた。1958年にはアヒジョが首相となり、フランスとの融和政策を柱として、カメルーン人民同盟を抑圧した。 アヒジョの活動もあり、1959年に国連がフランスの信託統治の終了を決定。1960年1月1日にはカメルーン共和国がフランスから独立。アヒジョが初代大統領となった。

一方、イギリス領カメルーンでは、ナイジェリアとの軋轢が独立運動をそいでいた。1955年にジョン・フォンチャがカメルーン民族民主党を結成、ナイジェリアとの関係を絶ち、フランス領カメルーンとの統合を呼びかけた。しかし、同年エマニュエル・エンデレイが正反対の政策を掲げてカメルーン民族協議会を結成してしまう。1957年時点の国民会議ではエンデレイが多数だったが、1961年にはフォンチャの政党が過半数を占めた。

フォンチャとエンデレイは話し合いの道を選び、国連の監視が付くことを条件に人民投票で方針を決定することにした。結果的にイギリス領カメルーンの北部はナイジェリアへ、南部は旧フランスとのへと分かれることになった。南部は1961年10月1日、旧フランス領と共にカメルーン連邦共和国となり、フォンチャがアヒジョの副官となった。

この後、1982年に至るまでアヒジョは、大統領の職に留まる。後任のポール・ビアへ政権が移行する際も、内戦や武力対決は起こらず、カメルーンはアフリカ諸国としては例外的に安定し、21世紀を迎えることができた。


2009年01月23日

ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣

『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』(ファイアーエムブレム あんこくりゅうとひかりのつるぎ[2])は1990年4月20日ファミリーコンピュータ用ソフトとして任天堂から発売されたシミュレーションロールプレイングゲームシリーズであるファイアーエムブレムシリーズ第一作目である。

なお、本項では必要に応じて『暗黒竜と光の剣』『新・暗黒竜と光の剣』をそれぞれ『暗黒竜』『新・暗黒竜』と略記する。

シリーズの第一作で、シリーズ全ての基礎を築いた。味方と一部敵キャラクターにその人物をあらわす顔が表示されたため、生きている存在とプレイヤーに感じさせ、感情移入を高めることに成功している。これまでの戦略シミュレーションゲームとは違い、ただの駒に過ぎなかったユニットに命と個性が付き、原則として戦いで死亡すると生き返らない[3]というシビアなゲームシステムと重厚なファンタジーシナリオが話題を呼んだ。
発売当初はソフトの値崩れが激しく不評であったが発売半年後に一部のライターが好意的に取り入れたり、遊んだゲームプレイヤーの口コミでファン層を増やした作品でもある[4]。

当時のTVCMでは、ゲーム画面を一切出さず「ファイアーエムブレムのテーマ」にのせて、中世騎士の格好をした一団が唱和するという一風変ったCMが放送される。同様の趣向は、『ファミコンウォーズ』や『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』でも見られた。

ゲームデザイナーにFEシリーズの生みの親であるIS・加賀昭三[5]。ディレクターに任天堂開発第一部・寺崎啓祐[6]。音楽にIS・馬場由佳 [7]、任天堂開発第一部・田中宏和[8]。グラフィックデザインに任天堂開発第一部・大澤徹[9]。スペシャルサンクスにIS・成広通[10] 。プロデューサーに任天堂・横井軍平が担当している。

ストーリー
地竜王メディウスと勇者アンリとの戦いから100年後、突如復活したメディウスにより、アカネイア大陸は戦乱の時を迎える。アンリが建国したアリティアもメディウス率いるドルーア帝国とその連合軍によって滅ぼされてしまった。王子であるマルスは姉のエリスの助けによって、辺境の国のタリスへと亡命するも、エリスはドルーア帝国に味方する魔道士ガーネフによってさらわれてしまう。

2年後、マルス達アリティアの戦士たちはタリス城の海賊襲撃をきっかけに、ドルーア帝国を打破するべく、そして愛する姉を取り戻すべく立ち上がるのであった。

ファイアーエムブレム#シリーズ共通用語を参照。『紋章の謎』以降から追加した設定は一切記載しない。
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アカネイア王国
アカネイア大陸の諸国を統率する宗主国。大陸で最も歴史があり、後に後述の7つの王国に分裂する。物語のおよそ100年前、ドルーア帝国の侵攻により壊滅的な打撃を受ける。今回のドルーア戦争の勃発により王都パレスは陥落。王女・ニーナを残し、王族は全て処刑されてしまう。
アリティア王国
主人公マルスの先祖である英雄・アンリによってアリティアに建国された王国。初代国王・アンリは100年前、神剣ファルシオンを手に地竜王・メディウスを倒す。アンリは英雄と称えられ、地方であったアリティアも王国へと発展した。今回のドルーア戦争が始まり、マルスの父であったコーネリアス王は神剣ファルシオンを携えアカネイア王国の救援へと向かった。グルニアの黒騎士団と戦闘中、同盟国グラの裏切りにあい壊滅し、アリティア王国は滅びた。
オレルアン王国
大陸の北東部、最も北に位置する大国。「草原の王国」と呼ばれることも多く、草原の広がる土地柄で、馬の運用が発達している。狼騎士団の強さは有名である。アカネイア王国とは係わり深い国。今回のドルーア戦争ではマケドニア軍の侵攻に占領されるが、オレルアン王弟・ハーディンはアカネイア王都パレス陥落の際に王女・ニーナをかくまって、反乱軍を興す。それ以来、ゲリラ闘争を繰り返している。
グルニア王国
大陸の南西に位置する王国。騎士の国。カミュ将軍率いる黒騎士団は、大陸最強と名高いグルニアの精鋭部隊である。アカネイア王国に反感を抱いていたグルニアは、国王の気弱さもあり、今回の戦争でドルーア帝国と同盟を結ぶ。しかし、王女・ニーナと恋仲にあるカミュ将軍は、祖国と恋人の間で苦悩する。「木馬隊」なる戦車軍団も有名である。
マケドニア王国
ドルーアの南に位置する森林・山岳地帯にある国家で、飛竜・天馬を多く産し、竜騎士団はグルニアの黒騎士団と並び称されるほどの精鋭部隊である。他にもペガサスナイトからなる白騎士団も存在する。実権がミシェイルに移ると、ドルーアとの同盟を宣言する。王女・ミネルバに謀反の危機を感じたミシェイルは、妹であるマリアを幽閉し反逆を抑えた。
グラ王国
アリティアの東隣に位置する王国。今回の戦争で国王・ジオルは、ドルーアに与して同盟国アリティアを裏切り、アリティア軍を背後から急襲した。
タリス王国
小部族の長であった人物がタリス島の部族を統一し、建国した王国。東大海に浮かぶ島国だが、ガルダなどの東海岸も治める。建国されて間もないため国力は低く、正式な騎士団が無い状態で傭兵に戦力を頼っており、一度は海賊の侵攻で城が陥落している。今回のドルーア戦争によって祖国を追われたアリティアの王子・マルスに、タリス王は惜しみない援助をする。
カダイン
魔道国。大陸西部の砂漠地帯に位置し、魔道を修行する者が集まる魔道学院が設置されている。国交や戦争には無干渉であったが、今回の戦争で暗黒司祭・ガーネフがカダインを制圧後ドルーアと与した。
ドルーア帝国
広大な原生林が広がるアカネイア大陸の南西部のジャングル。この地方の覇者が地竜・メディウスである。メディウスは大陸制覇の野望を抱き、アカネイア大陸に侵攻したが、英雄・アンリによってメディウスは倒され滅亡した。しかし100年後に永い眠りから覚めたかのようのメディウスが復活し、かつての無念を晴らすかの如くグルニア王国とマケドニア王国を併合しドルーア帝国を復活させた。
カシミア国
アカネイア連邦に属する小国で、大陸とはカシミア海峡にかかる橋で繋がっている。この地には秘宝が眠っているラーマン寺院がある。

2009年01月16日

地理学

地理学(ちりがく、英:geography、独:Geographie(-fie)またはErdkunde、仏:géographie)は、空間ならびに自然と、経済・社会との関係を対象とする学問の分野。空間や自然環境という物理的存在を対象の中に含むことから、社会科学と自然科学という両面の性格を有する。

元来は農耕や戦争、統治のため、各地の情報を調査しまとめるための研究領域として成立した。しかし現在は、自然科学ないし人文科学の一分野として、各地ごとに異なる空間的異質性を説明することが求められるようになった。

地理学の内部は、大きく系統地理学、地誌学、地図学、地理学史の4つに分類される。系統地理学はさらに自然地理学・人文地理学に分けられ、それぞれがまた細かく分類される。ただし、自然地理学の諸分野は地球科学の影響を受け、その中でも時に生態学や気象学、地質学などと連携されることが多い。人文地理学は歴史学・社会学・経済学などの近隣分野の影響を受け、それらの知識ならびに隣接分野の理論の十分な理解が要求される学問である。また、自然・人文ともにフィールドワークや巡検を実施し、実地調査に基づく観察を重視する傾向があるのが特徴である。
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地理学誕生の地は、古代ギリシアである。学問としては、博物学の部門に属した。その源流は、各地の様子を記載する地誌学的なものと、気候や海洋について研究する地球科学的なものとに見ることが出来る。中世には停滞を招いたが、大航海時代による爆発的な地誌の拡大や、17世紀以降の自然科学の発達と観測機器の発達は近代地理学の成立へと導いた。現在見ることのできる科学的な地理学の源流は19世紀初頭のドイツでおこり、アレクサンダー・フォン・フンボルトとカール・リッターの二人の名に代表され、彼らは「近代地理学の父」と称えられている。彼らは地誌的な記述ばかりではなく、様々な地理的な現象に内的連関を認め、地理学においてその解明の重要性を説いた。19世紀後半には、地理学者らによって各種系統地理学が整備され、日本など世界各国に地理学が移入された。1950年以降、アメリカ合衆国が中心になってコンピューターや統計データなどを用いて、計量的な地理学が世界中に急速に普及したが、1970年代後半移行、この様な研究は他の分野との競争に敗れ、一旦は衰退したが、GIS などを利用した地理情報科学として、学際的な性質をもって、新たに再生してきている。さらに、現在では環境問題や他の近接学問分野の細分化・多様化なども相まって、地理学という範囲にとらわれず様々な分野への関心が要求されている。